『ゆっくり学ぶ』P068-069,原文和译文如下
【日文】
緊急の行動を促す合図ではないこともあります。子どもや孫が学校に行かなかったり、働かないで家にいたりするのを見た時、それを緊急ではなくても何らかの行動を促す合図と受け取ります。イライラしたり、「早く学校(会社)に行きなさい」と叱ったりするのがよくある反応ですが、中には無反応という反応をする人もいます。静観する人はそうするために決心が必要ですが、無反応な人は起こっていることにただ無関心です。
合図を受け取った時に、どんな判別をして対処することが最善なのかを絶えず検証しなければなりません。そのためには疑わなければなりません。世間でいわれていること、多くの人がいっていることが正しいとは限らないからです。
三木清は次のようにいっています。
「人間的な知性の自由はさしあたり懐疑のうちにある」
この知性の自由を阻むのが「独断」です。なぜ独断が問題かといえば、状況を離れて善悪の判断をすることはできないからです。
例えば、学校に行かないで家にいることは悪、反対に、学校に行くことは善であるといえるかといえばそうとは限らないということです。ある状況の、ある子どもにとっては、学校に行くことが善でないことがあります。学校でいじめを受けているような場合です。
いじめは不登校よりも先に解決しなければならないので、そういう状況を考慮しないで、とにかく学校に行かないといけないと考えるのは問題でしょう。何が善なのかを個別に判断しなければなりません。
【译文】
也有非紧急行动的信号。当孩子或孙子不去上学或不工作而待在家里时,人们会将其视为某种需要行动的信号,尽管这并不是紧急情况。常见的反应是感到烦躁,或责骂说“快去上学(上班)”,但也有些人会毫无反应。选择静观其变是需要决心的,但毫无反应的人则是对发生的事情漠不关心。
接收到信号时,我们必须不断检验什么样的判断和应对最为恰当。为此,我们需要保持怀疑态度。因为,社会上流传的观点和多数人的看法并不一定总是正确的。
三木清曾说过:
“人类智慧的自由首先存在于怀疑之中。”
阻碍这种智慧自由的正是“独断”。独断之所以有问题,是因为无法脱离具体情境去判断善恶。
例如,不能简单地认为不去上学是坏事,去上学是好事。对于某些情况下的某个孩子来说,去上学并不一定是好事,比如在学校受到欺凌的孩子。不去上学的问题应当在欺凌问题解决之后再考虑。因此,不顾具体情况,而一味要求孩子去上学是有问题的。我们必须根据具体情况来判断什么是善。