『ゆっくり学ぶ』P077-078,原文和译文如下
【日文】
学ぶことで得られるもの
自分で考える力を身につける
人は学ぶことを通じて、何ができるようになるのかというと、まず、自分で考える力を身につけられます。例えばSNSで見かけたメッセージに書いてあることを鵜呑みにする人がいます。そのような人は少し考えるとおかしいとわかることが書いてあっても、それが正しいかどうかを自分で考えて判断しようとしません。
子どもの頃から学校で何かを教わっても、教師が話すことや教科書に書いてあることを無批判に受け入れてしまう人は多いように見えます。教えられたことを覚えるのが学びの中心になってしまうと、自分では考えられなくなってしまいます。
しかし、教師が教えることが間違っていることはありますし、教科書に書いてあるからといって正しいわけではありません。また、ある文化で生まれ育った人は、その文化で自明で常識となっている考えに囚われてしまっているので、常識となっている考えが正しいかどうかというようなことは考えもしないのです。
三木清は、次のようにいっています。
「精神の習慣性を破るものが懐疑である」
精神の習慣性とは、これはこういうものだと決めてかかったり、誰かがいっていることに安直に飛びついたりするようなことです。考えることが習慣化されると、本当なのかどうかを立ち止まって考えられなくなるのです。
学ぶということは、教師が話したことや教科書や本に書かれていることを無批判に受け入れるということではありません。試験ではとにかく覚えなければならないと考える人は多いでしょう。しかし、覚えるのと学ぶのは別のことです。覚えることに注力すると、考えられなくなってしまうのです。
【译文】
学习所能获得的
**培养独立思考的能力**
通过学习,人们首先能够培养独立思考的能力。例如,有些人在社交媒体上看到的信息会全盘接受,不加思索。即使那些信息稍加思考就会发现存在问题,他们也不会自行判断其真伪。
从小在学校里接受教育时,很多人对老师讲的内容和课本上的信息不加批判地接受。若学习的中心只是记住被教的东西,那么自我思考的能力就会丧失。
然而,老师教的内容有时是错误的,课本上的信息也不一定是正确的。此外,在某种文化中成长的人,往往会被该文化中的常识性思维所束缚,甚至不会去质疑这些常识是否正确。
三木清曾说:“打破精神习惯性的是怀疑。”
所谓精神习惯性,就是指对某些事物先入为主,或者轻易接受他人的说法。当思考变成一种习惯时,人们便无法停下来判断其真伪。
学习并不是对老师所讲的或书本上所写的内容不加批判地接受。许多人认为考前必须记住所有内容。但记住和学习是两码事。若只专注于记住,那么思考的能力就会丧失。