附上演讲全文及我们翻的译文,做成中日对照的形式,供大家练习听力、口译。
- 原文:藤枝树亚
- 译文:日语翻译社
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演讲全文&译文如下:
あなたの私を見たときの第一印象は何でしたか。多分車椅子の人だと思います。そりゃそうです。私の見た目の中で一番インパクトのあるところだと思います。でもこの話が終わった後にあなたが私に抱く印象はきっと全然違うものだと思います。今日はそれを楽しみに聴いていただけると嬉しいです。
你们对我的第一印象是什么呢?是一个坐轮椅的人吧!这也是必然的,我外表最有冲击的一点就是轮椅。不过我下面要讲的可能会刷新大家对我的印象。希望今天大家可以带着这个期待听我的演讲。
5年前私の人生はどん底に落ちました。エンテロウイルスというウイルス性の脊髄炎にかかり、歩くことができなくなったのです。私は小学校2年生の頃から父の仕事の関係で、東南アジアにあるベトナムという国に住んでいました。そこでの日々は本当に楽しくて毎日が輝いていました。しかし中学校1年生の10月1日のことです。朝起きた時から下半身に猛烈な痛みが襲いました。今考えると、あの痛みのまま中学校行こうとした自分が怖いですが、皆勤賞私は狙っていたので何とか我慢して学校まで行きました。
5年前我的人生跌到了谷底,我得了肠道病毒脊髓炎,失去了行走的能力。小学2年纪的时候,因为父亲工作的原因,我生活在越南,那是一个地处东南亚的国家。在那里的每一天都很快乐,每一天都闪闪发光。事情发生在我读初一的10月1日,早晨起床后下半身感到剧烈的疼痛。现在想想,在那么痛的情况下还要去上学,自己也太可怕了。为了获得全勤奖,我强忍着疼痛去上学了。
1時間目私のクラスは授業の時間を使って3階のホールで遊ぶことになりました。朝からどんどんどんどんいたみがまし、なんとか私は手を使って階段を上がりました。授業が終わる頃ついに耐えきれなくなった私はその場に倒れたのです。担任の先生が保健室まで運んでくださり、そのまま現地の病院に救急車で向かいました。しかしその病院にいるままでは検査ができないので、急遽隣国のタイに行くことが決まりました。結果的にタイで1か月ほど過ごした私ですが、その時はできるだけ早くベトナムに戻りたいというふうに思っていました。心配してラインをくれた友達にも大丈夫だよという風に気丈に返事をしていました。その時は事の重大性を何も理解していなかったのです。
第一节我们班没有上课而是去3楼的大厅玩游戏。从早上开始疼痛越来越严重,我借助手部力量好不容易爬上了3楼。第一节课结束后,再也无法忍受的疼痛让我当场晕倒。班主任把我送到了卫生室,紧接着我就被救护车送到了当地的医院。但是那所医院不具备检查条件,所以我又被紧急送到了邻国泰国,最终我在泰国待了1个月左右。那时候我想尽早回越南,在Line上非常坚强地跟担心我的朋友说没事,那时候我丝毫没有认识到事情的严重性。
病院ではウイルス性だけど悪性じゃないから、また歩けるようになるよというふうなことを言われていました。当時の私は何ですぐに治らないんだと苛立っていました。結局ベトナムに帰ることなく、11月ごろ日本に帰国した私は京都の病院に再入院しました。ここでは全力ダッシュとかは厳しいかもしれないけど、ランニングくらいならできるようになるよと医師から言われた記憶があります。病院でのリハビリが始まってからは、なんだかタイにいる時のリハビリとは違うなと思っていました。そこでも1か月ほど過ごした後、大阪にあるリハビリに強い病院に転院することが決まりました。私はもう一度歩けるようになるためにリハビリを強化するのかと意気揚々としていました。
医院说虽然是病毒性的,但不是恶性,所以还能恢复走路。当时我很着急,盼着赶紧痊愈。结果我并没有返回越南,而是在11月左右回到了日本,住进了京都的一家医院。我记得这家医院的医生说过,全力快跑有点困难,但慢跑是没有问题的。从在这家医院接受康复训练开始,我就隐约觉得与泰国那家医院的似乎不太一样。在京都的医院也待了一个月左右,之后我被转到了大阪一所擅长做康复的医院。我得意地认为这是为了重新走路而做的强化康复训练。
しかし現実はそんなに甘いものではありませんでした。そこでのリハビリはタイで行っていたものとは大きく違いました。タイでは歩くためのリハビリをしている感覚だったのですが、そこで行ったのは京都の病院で行ったものに近く、靴を履く練習や手の力で段差を上る練習などそんな練習が多かったです。私は理解したくなかっただけで、きっと分かっていたんだと思います。これが再び歩くためのリハビリではなく、車椅子生活を送れるようになるためのリハビリだということをモヤモヤした気持ちが続く中、転院した12月からいつのまにか2ヶ月も月日は流れていました。
但现实是残酷的。在大阪的康复训练和泰国那家有很大区别,感觉在泰国的是为了恢复走路,而在大阪接受的康复训练和京都的差不许多,穿鞋、用手臂力量上台阶之类的训练比较多。我不是不明白,而是不想明白。现在的康复训练不是为了恢复走路,而是为了可以用轮椅生活。我每天都感到很郁闷,我是12月转到大阪这家医院的,不知不觉又过了2个月。
2月3日、忘れもしません私に宣告が下されました。現代の医療技術ではもう一度歩けるようにはならない。医学の発展を待ちましょう。そんなことを言われました。先に泣いたのは一緒に話を聞いていた母でした。私は驚いたようで実は心の中で薄々気づいていたことを言語化された気がしました。泣いたのは母がいた何分か何秒か後でした。それから今まで5年と2ヶ月、ずいぶんと長かったように感じます。暗い気持ちにさせてすみません。今日はそんな人生真っ逆さまに落ちた私が見つけた、自分の殻を打ち破る方法についてお話しします。
2月3日,我忘不了这一天,医生宣布了诊断结果。“现在的医疗技术没办法让你恢复走路,让我们等待医学的发展吧”,医生对我说了这样一番话。陪我一起的妈妈先哭了,我看上去很震惊,但其实心里已经隐隐感觉到了,只不过是被医生说了出来。在母亲哭了几分钟或者几秒钟后我也哭了,到今天又过去了漫长的5年零2个月。说了些让人伤心的事情,不好意思。今天我要讲的是当我跌落人生谷底后,发现的突破自我的方法。
中学校2年生の時退院した私は立命館宇治中学校に入学しました。今では立命館宇治が大好きな私ですが、その当時は学校に行きたくなくてしかたがなかったです。親に車で送迎してもらっているのですが、学校近くのコンビニを見ると毎朝動悸がするくらいには学校に行きたくなかったです。学校に行くどころか生きているのさえいやで、でも死にたくはなくて、毎日砂のように消えてなくなることはできないかと思っていました。けれど一度行くのをやめてしまえばもう学校にいけなくなると思った私は辛い中なんとか通い続けていました。
我在上初二的时候出院了,然后进入了立命馆宇治中学。虽然我现在非常喜欢立命馆宇治中学,但当时非常抵触上学。父母会开车接送我上下学,一看到学校旁边的便利店,心就怦怦跳,抵触到这种程度。不用说上学了,活着都让我心生厌恶,但是又不想死,每天都在想能不能像沙子一样消失。我知道只要中断一天,可能就再也不会去上学了。所以虽然痛苦,但还是在坚持。
学校に通い続けられたのは学校の先生方や家族、立命館宇治優しいみんなのおかげです。例えば何人かの友達が毎朝学校の駐車場まで来て私は迎えに来てくれたことがありました。おかげで教室まで向かう心の余裕がすごく生まれました。出来ることがあれば何でも言って、先生からも友達からも何度も言われた温かい言葉です。思えばいつも私の周りはみんなの細やかな気遣いで溢れていました。支えてくれたすべての人にはいくら感謝しても足りません。
我能坚持上学,多亏了学校的老师们、我的家人、立命馆宇治中学热心的同学们。我有几个朋友,他们每天早上都来学校的停车场接我,他们的帮助让我可以从容地走向教室。“有什么需要帮忙的尽管说”,老师和朋友们经常对我说这句温暖的话。现在回想起来,大家总是给予着我无微不至的关心。对于所有帮助过我的人,千言万语都不足以表达我的谢意。
なんとか学校に慣れてきたかなと思い始めた中2の11月、また別の病気にかかってしまいました。IgA血管炎という病気でエンテロウイルス脊髄炎とは何の関係もないそうです。せっかく頑張っていたこれまでの自分をもう一度叩き潰されたような感覚がしました。なんで自分が?そんなことは飽きるほど考えました。どん底から抜け出しそうになった私を別の病気がもう一度底まで落としていったのです。でもそんな時も応援メッセージをくれたり連絡をとってくれたりする、学校の先生や友達は私の心の支えでした。
读初二的11月,我总算适应了学校的生活,但没想到另外一种病又找上门来。这种病叫过敏性紫癜,它和肠道病毒脊髓炎没有任何关系。自己好不容易努力到现在,却再一次被击溃。为什么是我呢?我想破了脑袋。眼看就要从谷底爬上来了,却因另一种疾病再次坠入深渊。在那个时候,学校的老师和朋友们依然给了我很大的慰藉,他们发信息给我加油,和我保持联络。
3年生になる4月から医師からの登校許可がおり、もう一度学校生活がスタートしました。これは2年生の頃から感じていたことですが、学校のみんなは勉強に加えて、もう一つ何かを一生懸命頑張っているなぁと思い、それを私は身近で見ていました。それと同時に勉強さえまともにできない自分は何なんだ。自分には何もないと思うようになりました。自分もがんばってみようと思った最初のきっかけでした。みんなに追いつきたかった私は3年生の最初の中間テストまで本気で勉強することにしました。加えて英検や漢検など検定も何度も受験しました。全部みんなに追いつくためです。努力が実った1学期の中間テスト、それまで学校の先生に中の中と言われていた私がなんと学年トップ10に食い込みました。少しだけ自分の存在価値を感じることができた瞬間でした。でもまだまだこれじゃだめだという気持ちもありました。
即将升初三的4月,我在医生的许可下再次返回了校园。下面是我上初二时觉察到的,同学们除了刻苦学习之外,还会努力再干一件事情。我就在近旁看着,同时又想到自己连学习这一件事都不行,就开始觉得自己一无是处,于是产生了自己也要努力的想法。我想要追上大家,于是决定到初三第1次期中考之前认真学习,另外还多次参加了英语、汉语等资格考试,这都是为了追上大家。我的努力在第一学期的期中考中结出了硕果。之前老师说我的成绩不上不下 没想到这次进入了年级前10。那一瞬间我稍微感觉到了自己存在的价值,同时也知道这是远远不够的。
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