附上演讲全文及我们翻的译文,做成中日对照的形式,供大家练习听力、口译。
- 原文:越直美
- 译文:日语翻译社
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演讲全文&译文如下:
私は琵琶湖が大好きです。琵琶湖のある大津市で育ちました。父、母、妹 そして祖母の5人家族でした。父、母が働いていたので、祖母がいつも私の面倒を見てくれました。その祖母が私が中学生の時に自宅で転んで 歩けなくなりました。母が仕事を辞めて10年間自宅で介護をしました。
我非常喜欢琵琶湖。我是在琵琶湖边的大津市长大的,家里有五口人,父母、妹妹、祖母和我。因为父母都有工作,所以一直是祖母在照顾我。然而在我上中学的时候,祖母在家里摔倒了,此后再也无法走路。母亲辞掉了工作在家里照顾祖母,一照顾就是10年。
私の家には階段があったりしたので、車椅子の祖母を階段で下ろす。またお風呂に入れる。私や妹が学校に行ってしまうと、母は近所の人に助けてもらって介護をしていました。今は介護保険という制度があります。しかし当時はそのような制度がなかった。その中で年を取るということは誰にでもあります。それに対してもっと身近な行政ができることがあるのではないか。それが私が最初に政治に興味を持ったきっかけでした。
我家里有楼梯,所以要把使用轮椅的祖母抬下来,还要把她抱进浴缸。如果我和妹妹去了学校,母亲就需要左邻右舍的帮助。现在有了护理保险制度,但当时还没有。然而谁都有衰老的一天,基层行政就不能拿出一些解决对策吗?这让我第一次对政治产生了兴趣。
大学は北海道大学に進学をしました。今はこの時代は就職氷河期と呼ばれています。男性の学生には先輩から就職のお誘いの連絡がありました。しかし女性の学生には何の連絡もありませんでした。なかなか就職するのは難しいなと思って、法学部でもあったので、司法試験の勉強を始めました。しかし大学3年生の時、4年生の時、さらに留年した時も司法試験に落ちました。ますます就職できなくなると非常に不安に思い、そして焦りました。
我念的大学是北海道大学。现在我们称那个时代为就业冰河期,男生会收到师兄师姐们的工作邀请,但是女生完全收不到。工作难找,加上自己本身也是学法律的,所以我开始准备司法考试。但是大三、大四都没有通过,留级也还是没有通过。就业变得愈加渺茫,我感到十分不安而且变得焦躁起来。
大学を留年した年に、東京の事務所にインターンシップに行く機会がありました。その事務所は M&A企業の合併や買収をしている事務所でした。私と年が変わらない弁護士が「新聞の一面に載る仕事をした」という話をしていて、とてもキラキラして見えました。私もあんな弁護士になりたいと思って、それからもう一度一から勉強して、次の年に司法試験に合格をして弁護士になりました。
留级那年,我获得了去东京一家律所实习的机会。那家律所是做M&A案件的,也就是企业合并和收购案件。律所里一位和我同岁的律师说自己做过大案子,看起来真是光彩夺目。我也想成为那样的律师。于是我又从头开始学起,然后通过了次年的司法考试,成为了一名律师。
インターンをした事務所で働きましたが仕事はとてもやりがいがありました。でもとても忙しくて、12時前に帰れるということはありませんでした。でも仕事で関係があるアメリカに留学がしたいと思って、留学の準備を始めました。とても疲れている。仕事が忙しかったこともあったので、留学のための英語の試験に寝坊してしまったということも何回もありました。ついに2008年にアメリカのロースクールに留学ができました。次の年からは ニューヨークの法律事務所で働きました。その時に、私の人生を変える出来事がありました。
后来我去到一家律所实习,那里的工作非常有价值,但是很忙,从来没有在晚上12点前下班的时候。因为工作的关系,我想要去美国留学,所以就开始做留学的准备。留学准备非常累,加上工作也很忙,所以在留学英语考试中睡过去好几次。终于在2008年我实现了前往美国法学院留学的愿望。次年我进入了纽约一家律所工作,在那里发生了改变我人生的事情。
同じ事務所で働いていたアメリカ人の男性の弁護士が育児休暇を取ったのです。当時日本では私の周りには男性で育児休暇を取るという人がいませんでした。男性も育児休暇を取るんだと大変驚きました。それから調べてみると、日本の女性の5割、6割の人が1人目のお子さんを持ってお仕事を辞められていました。女性が仕事かまたは子育てか、その二者択一を迫られている現状でした。私は女性が仕事または子育て、そして仕事も子供も家族も、両方を選べる社会を作りたい。女性が自由に選択できる社会を作りたいと思いました。女性がそのように仕事を辞めている原因は保育園が足りないということが当時一番の原因でした。保育園を作る権限は市にあります。自分が好きな大津市に戻って保育園を作ろう。女性が自由に選択できる社会を作ろうと思い、選挙に出よう、市長選挙に出ようということを思いました。
所里一位美国男同事竟然休育儿假。那时在日本,我的周围没有休育儿假的男性。男性竟然也休育儿假,这让我十分震惊。于是我就去调查了一下,发现有5、6成的日本女性在生了第一个孩子后就被迫辞掉工作。女性被迫二选一,要么工作要么带孩子。我想要构建这样一个社会,在那里女性可以有多种选择,既可以选择只工作或只带孩子,也可以选择在工作的同时照顾孩子和家人。我想要构建一个女性能够自由选择的社会。当时女性为照顾孩子而辞职的最大原因是托儿所数量不足。而建托儿所的权利在市政府,我想回到热爱的大津市去建更多的托儿所,创造一个女性可以自由选择的社会。带着这种想法我决定参加市长选举。
いろんな人に手紙を書きました。でも多くの人は「若すぎる」または「何の経験もないじゃないか」ということを言われました。また自分でも「苦労して弁護士になったのに選挙に落ちたら弁護士ができなくなる」ということも思いました。非常に迷いました。そういった中でひとつ友人が言ってくれた言葉があります。それは「世の中には自分の住む場所やまた仕事を選べない人がたくさんある」迷うということは選択肢があるということ」「それは非常にラッキーなことなんだ」 と言ってくれました。それから思う存分迷うことができました。もう一つ友人が言ってくれた言葉があります。それは「自分にしかできないことをするべきだ」という言葉でした。確かに私がアメリカに行っても私の代わりをしてくれる弁護士はいました。市長は一人しかいません。そして若いからこそ、また経験がないからこそ、女性だからこそ、できることがあるのではないかと思いました。そこで大津市に戻って選挙に出ました。
我给跟多人写了信,但是得到的回应大都是“你太年轻了”“你没有任何经验啊”。我自己也在想,为了成为律师我吃了很多苦,要是落选可就当不成律师了,所以非常犹豫。就在那时有个朋友对我说了一些话,“这世上有很多人无法选择自己的住所和工作”“你在犹豫说明你有选择”“这是多么幸运的事情啊”,听了朋友的话我就尽情地去犹豫了。还有一个朋友对我说“你应该选择只有你才能做的事情”。确实就算去了美国,也有能够取代我的律师,而市长只有一个人。正因为年轻、正因为没有经验、正因为是女性,正因为这些因素才可能做出一些别人做不到的事情吧!于是我回到大津市参加了选举。
2012年にいろんな方のご支援を頂いて市長になりました。当時36歳で日本で一番若い女性の市長でした。私は8年間市長をしている間に54園 3,000人分の保育園を作りました。その結果、 4年、年度当初で待機児童がゼロになりました。今までは女性が30代の女性が子育てのために仕事をやめるというM字カーブというのがありました。これがなくなりました。また小さいお子さんを持って働く女性が70%増えました。そして大津市に引っ越してきてくれる人も増えました。私はこれが自分のゴールだというふうに思ってやってきました。女性が仕事を続けられる。しかし決してそれはゴールではありませんでした。
在很多人的支持下,我在2012年当选为市长。36岁的我成为了日本最年轻的女性市长。在担任市长的8年间,我市建立了54所托儿所,可容纳3000名儿童。其中4年,在每年4月份的入园期,实现了辖区儿童“幼有所托”。此前有很多30+女性会为了照顾孩子而辞职,在统计表上呈现出M曲线,后来这条M曲线不见了。另外,孩子处于低龄阶段的职场妈妈增加了70%。搬来大津市的人口数量也有所增加。我一直把这个当做自己的奋斗目标,让女性可以在生育后继续工作,但这绝不是终点。
会社の中を見ると女性と男性が同じように働けているかというと 決してそうではありません。私は今、弁護士の仕事をしながら女性の企業の役員を育成する会社を立ち上げました。今日本の上場企業の女性の役員は9%です。経団連は2030年に女性の役員を30%にするという目標を掲げています。それにはあと8,000人の女性の役員が足りません。もう一つ私がこの会社を立ち上げた理由があります。それはこの風景です。これは私が市長の時にいつも見ていた風景です。女性は私一人ということは決して珍しくありませんでした。
放眼社会,我们可以发现,女性在职场中并没有得到与男性同等的对待。现在我在从事律师工作的同时,还成立了一家公司,专门培养女性企业董事。目前在日本的上市企业中,女性董事占比为9%。经团联定了一个目标——到2030年女性董事的占比达到30%。现在距离这个目标还差8000人。我成立这家公司还有一个理由,因为这种景象。这是在我担任市长时司空见惯的景象,只有我一名女性,这种情况并不稀奇。
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