日本人气搞笑艺人千原浩史在毕业典礼上的演讲,附上演讲全文及我们翻的译文,做成中日对照的形式,供大家练习听力、口译。
- 原文:千原浩史
- 译文:日语翻译社
※如需中日对照电子版:请移步公众号「日语翻译社」后台,回复「千原演讲」即可获取。
このたびは新しく社会に出られる方卒業された方ね、本当におめでとうございます。千原ジュニアと申しますよろしくお願いします。この大変な時期に社会に出られる皆さんに、何か一つでも二つでもちょっとポケットにでも入れていただけるようなお話ができればと思ってやってまいりました。
即将迈入社会的各位毕业生们,恭喜大家,我是千原Junior。大家要在这样一个艰难的时期进入社会,希望我接下来讲的内容多多少少能给大家带来一些帮助,这也是我今天来到这里目的。
本当に大変な時代に社会に出られるということで、今までノウハウが一切通用しないであるとか、何が正解なのか分からないみたいなところで、社会に出られるわけですから、非常に不安も大きいかと思いますけれども、逆に言うとこんなタイミングで卒業社会に出るというのはこの年に、この時代に生まれ落ちたと言う。逆に言うと選ばれし人たちという風に考えて行くしかないんじゃないかと思っております。逆にこの時期が良かったと言ってももう選べないわけで、すごい時に社会に皆さんは出られると思うんです。
眼下我们面临的是一个非常艰难的时代,而大家要在这样一个时候进入社会,以往的做法可能都不起作用也不明白什么才是正确答案。在这样的情况下进入社会我想大家也会有些不知所措,但反过来讲大家在这样一个时间点毕业进入社会,生在这样一个年头,生在这样一个时代,从某个角度来讲,大家也可以说是天选之人。只能这样去想了,毕竟想要生在别的时代也是不可能的了,大家真是碰到了个了不得的时候。
僕の持論ですけれども、凹んだり落ち込む時そこからしか見えないものもあると思います。しゃがめばしゃがむほどそのあと大きく飛べるんじゃないかなと思っています。自分の経験したことしかお話できませんけど、本当に人生に捨てるところはないと思いますし、何かこの意味があってこれはチャンスなんじゃないかなと思っております。
虽然这只是我的一家之言,我认为有一些东西只有处在低谷时才能察觉。身处的位置越低今后就能飞得越高。在这里和大家分享的只是我个人的经验,但我确实认为人生中发生的一切事情都有它的价值,都有它的意义也有可能转变为机遇。
僕は振り返りますと、幼少期は祖父母に育てられまして、うちのお爺ちゃんは樵です。僕が鉛筆を鉛筆削りで削っていると男がそんなもので鉛筆を削るなってナイフを渡されたものでした。そんな時代でしたけど、小学校の時に受験しまして、それで中高一貫の六年生の新学校に入学しました。
回顾我的人生,童年时期和祖父母一起生活。我的祖父是伐木工人,看到我用削笔器削铅笔,祖父就发话了说男子汉怎么能用那种东西削铅笔,然后他就给了我一把小刀。当时那个时代就是这样。然后小升初的时候我考进了一家新成立的初高中一贯制学校。
ある日学校に鉛筆を削るためにナイフを持って行ってたら、持ち物検査で先生にこれは何だと僕はこれはナイフですと言うと、何でこんなものを持ってきてるんだということで、もちろん僕は鉛筆を削るために持ってきたんですが、これは没収するとなぜですかって聞くと、これでお前がもし人を傷付けたらどうなるんだっていうことで、そんなことを言い出したら野球部のバット持ってる奴があれで人を殴ったらどうするんですかといったら、先生はお前屁理屈を言うなって言って、先生の胸ポケットの入っていたボールペンで僕の頭をつきましたよ。
有一天我带着削铅笔用的小刀去了学校。老师检查学生物品时就问我这是什么,我说这是小刀。老师就问我为什么要带这种东西来,我当然是为了削铅笔带来的。但老师说这要没收,我问为什么,他说你要是用这个伤人怎么办。我就回说要是这么说的话那棒球部的人用棒球棍打人怎么办。老师说你别强词夺理,然后掏出胸前口袋里的圆珠笔戳了我的脑袋。
僕はそういう理不尽に納得いかず、それだけではないんですけど、そういうことがいくつかあり、僕は学校にそこから行かなくなって、当時まで引きこもりということはなかったですが、登校拒否児ですね。僕は将来に対する不安とか、どうしようも納得のいかない悶々としたものを抱きつづ、ずっと部屋で膝を抱えていたんです。中高一貫ですから一応高校にはそのまま行けたんですが、もちろん高校になると単位がないということでもう退学になるのは目に見えている。
我实在接受不了这种不讲理的事情,当然除了这件事之外还发生了其他事情。发生了好几件这样的事情之后,我就开始不去上学了。当时还没有“蛰居人士”这个词,所以我是“厌学儿童”。当时我对未来很迷茫,对发生的那些事情也无法接受。怀着郁闷的心情,一直把自己关在房间里。学校是初高中一贯制的所以可以不用考试直接上高中,但进了高中我也会因为学分不够而被退学这些情况都是可以想见的。
この先僕の将来僕の未来はどうなるのかなと思っているところに、兄のせいじから電話がかかってきまして、それで「吉本に俺入ってねんだけど相方がいひん(=いない*関西弁)からお前来い」と「学校に行ってへんやろうちょっと来い」って言って、京都の実家の部屋から大阪の吉本興業というところに行きまして、僕はその小っちゃいところからクラスで人を笑かしたこともないですし、もちろんお笑い番組が好きでずっと見てたとか、漫才が好きで劇場に足を運んだこともないですし、でもなんとかその部屋から出たいということで、吉本の養成所に行ってそこでみんながネタを考えてきて、ネタをやってるんですね。
我的未来会变成什么样子呢?就在我烦恼的时候,我的哥哥千原靖史打来了电话,和我讲“我现在进入了吉本没有搭档你来当我的搭档吧”“反正你也没在上学来吧”。我就从京都的家里去了大阪的吉本兴业。我从小在班级里就不属于活跃分子,也没有追过什么搞笑节目,更没有去剧场看过漫才,但我想从房间里走出来,所以去了吉本的培训所在那里和大家一起想段子练习段子。
それでまた3日後にネタ見せがあるから、せいじに「お前日後、ネタ作ってこい」と言われたんです。もちろん僕はネタなんかを作ったことがないがどうしよう。ふと中学生年生の時に字を書くためのボールペンで頭を刺されたことを題材に、その先生を設定にコントを作ってやったら、それが非常にウケたんですね。それでもしかしたら僕もいけるかもということで、現在吉本興業でこういうお笑い芸人をやってるんですけど、
然后呢3天后有一个段子展演会,靖史就对我说天之后写好段子带过来。我从来没有写过段子,正一筹莫展的时候,突然想起初二的时候老师用写字的圆珠笔戳我脑袋的事情,就以这个事情为题材以当时那个老师为原型写了段子。表演之后效果相当好,这给了我很大信心,所以到现在我还在吉本兴业当搞笑艺人。
その時本当に非常にどうなるんだと思ってつらかったですけど、こういうことになるのかとあとあと、その頃のことを小説に書いてくださいと出版社に頼まれて、僕は断ったんですが吉本興業がそれを快諾しまして、書けということで強制的に書かされて、それが後にドラマになったりしたんですが、僕はまさかそんな自分の何もしないという行動をとらないということがドラマになるなんて思ってもなかったので不思議なものだなと思って、そんなことでいろいろ仕事をいただけるようになりまして東京に来て、レギュラー番組をいただいたりしだすと、バイクで事故を起こしてしまいまして、
但学生时代的当时心里真的很忐忑很痛苦,后来才知道这件事情原来会结出这样一个果。有出版社邀请我将当时的经历写成小说,我拒绝了,但吉本兴业一口答应了这事儿。我迫不得已只好写,之后小说还拍成了电视剧。我也没想到自己无所事事什么也不做的故事会变成电视剧,实在是不可思议。就这样我接到了很多工作,来到了东京,开始有自己的常规节目。就在这时,我骑着摩托车出了事故。
顔面もぐちゃぐちゃで、表に立つことはできないなと会社からも諦めようということをICUで言われたんですけども、さすがに僕も今回は終わったなと15歳の吉本に入ってお笑いしか知らないので学歴もありません。何か違う道をていうのももうないなということで、一層終わらすなら自分の力でと思って、ベッドの右側に大きな機械があって、そこから管がいっぱいこう体に通されているんですけども、けり倒して終わりにしようと思ったんですね。でもこれが幸か不幸か右足が折れてまして、一切動かない左側ならいけたんですけど、ここからどうなるのかな思いながらなんとか一命は取り留め、一般病棟に移るんですけど、
脸也撞得血肉模糊,今后大概是没法再上台了。公司也劝我放弃吧,在ICU里对我说了这句话。我想我这次是真的完了。15岁进入吉本,只当过搞笑艺人也没有学历,肯定是走不了别的路了。我想既然要结束不如自己动手,病床右边有一台大的机器,伸出来很多管子插到我身上,我想过把机器踢倒一了百了。但也不知道是幸运还是不幸,我的右腿骨折了,动都动不了,如果机器在左边的话说不定就成功了。今后会变成什么样呢?我想着这个问题最终还是保住了命,要转床到普通病房去了。
想像もしなかったんですけど一般病棟に移るや否やその日から、毎日も本当ひっきりなしに芸人がお見舞いに来てくれるんですね。一番最初に来てくれたのが僕は15歳からずっとお世話になってる師匠の板尾創路さん。板尾創路さんが来られて、僕の病室にたぶん1階の売店で買ってこられたであろう、雑誌を4、5冊ドーンと置いて、早く帰ってこいって一言だけ言って帰って行かれたんですね。そっちの世界に戻れるって言う頭がまったくなかったんで、そんなこと言ってくれる人がいるのと思って、また板尾さんの凄いところドンと置いた雑誌の一冊目忘れもしません。これはブルータスで特集『今度はベスパに乗ろう』っていうね、次乗るバイクをオススメしてくれているとこね天然でそんなことがあったりとか。
我没想到就在准备转到一般病房去的那段时间,每天都不断有搞笑艺人来看望我。最先来看我的是从我岁就开始照顾我的师父板尾創路先生。板尾創路先生来的时候,大概是在一楼的小卖部买了4、5本杂志。往我的病房里一放,说了一句早点回来,然后就走了。我从来没有想过我还能回归搞笑艺人的世界,想着居然还有人愿意对我说这样的话啊!最厉害的是板尾先生留给我的杂志里,最上面一本的内容这个我一辈子都忘不了,是BRUTUS的专题策划《下次就骑踏板摩托吧》。神经大条的师父为我推荐了以后该骑什么种类的摩托。发生了这样的事情。
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